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2017年12月

2017/12/23

宇都宮ブリッツェンシクロクロスチーム 6年の歩み 【第6回】

2012年、宇都宮ブリッツェンにシクロクロス専任の選手が誕生した。

その選手の名前は、小坂光。

それから6年後、小坂は全日本選手権で優勝し、ナショナルチャンピオンジャージに袖を通す。そんな小坂とチームの歩みを、このタイミングで少しばかり振り返ってみたい。そうすることで、小坂とチームが目指す次の目標が、見つかる気がするからだ。





第6回:2017年 ー 歓喜 ー

地元、宇都宮市での全日本選手権を終えた後から、自分はずっと考えていた。

小坂が全日本選手権で勝てないのは、フィジカルが足りていないからではない。むしろ問題なのは、そのメンタル。直近の全日本選手権で改めてそう感じるようになっていた。

振り返ってみると、分からないでもない。

小坂はシクロクロスという競技を始めた高校生の時から、偉大なる父・正則氏がその道筋を作ってくれていた。

大学生になり宇都宮ブリッツェンに加入した小坂は、創設したばかりで足りないものだらけのチームだったとはいえ、いきなりプロ選手と同じサポートを受けることができた。

宇都宮ブリッツェンシクロクロスチームができる時も当時の監督である栗村修氏と運営会社、チームができた後は池本メカや廣瀬メカといった大人たちが、率先して小坂のために道筋を作ってきてくれた。

このように大人が率先して小坂のために動いてくれるのは、小坂自身にそうさせるだけの才能と魅力があるからだし、それを否定することはできない。

だが同時に、小坂の中に、自分が何かしなくても周りの大人たちがさまざまなことをお膳立てしてくれるという気持ちが少なからずあったことも、否定できないのではないかと思うのだ。

言ってしまえば、多くのプロ選手が常に頭や心の片隅に抱える“来年には、今と同じ環境で走れないかもしれない”、“選手でなくなったら、生活に困っているかもしれない”という切羽詰まった危機感が、小坂にとってはほぼないに等しい状況なのではないか。そういう意味で、小坂はまだまだ「子供」なのではないか。

自分はそう考えるようになっていた。

そんなことを自分が考えていることなど知る由もなく、小坂はこの年、さらに大きな決断をする。

シクロクロスの強化策として長年続けていたロードレースではなく、前年に池本メカのサポートを受けて2戦出場し、シクロクロスの強化に繋がると手応えを得たMTBにフル参戦することを希望したのだ。

そして、小坂は宇都宮ブリッツェンとしてMTBを走ることを希望したが、さまざまな理由が重なり、この希望をふたつ返事で運営会社が受け入れることはできなかった。

しかし、運営会社はチームのスポンサーでバイクサプライヤーであるミヤタサイクルと協議を重ね、小坂がミヤタメリダバイキングチームでMTBを走れるように道筋を作ることはしてくれた。ただ、運営会社ができるのはそこまで。MTBの活動は、すべてミヤタメリダバイキングチームの意向に沿うことが求められた。

この話を自分自身の2017年の契約の際に柿沼社長から聞き、自分は、これはいい機会なのではないかと思った。

というのも、これまでの周りが先回りしてくれる環境、言い換えれば周りから求められる小坂ではなく、周りが求めたのではなく小坂自身が望み、求めた環境に身を置いて活動することで、違った世界が見えてくるのではないかと思ったからだ。

そう思った自分は、小坂がMTBシーズンを戦っている間は偶然あった時は言葉を交わしこそすれ、自分から積極的に小坂と連絡を取ったり食事に行ったりすることを控えることにしていた。

この間、自分の小坂に関しての情報源は、小坂が宇都宮ブリッツェンに加入した時からずっと身体のケアをしている、きぶな接骨院の髙橋英明先生。

「以前に比べると最近は定期的に、しっかりと身体のケアに来ていますよ」

「筋肉のつき方が変わってきていますよ」

長年、小坂の身体のケアをしてきた髙橋先生から小坂の変化を聞くたび、周りから求められるのではなく、自らが求めた環境に身を置いたことでがいい方向に向かっているのではないかと感じることができた。

期待を膨らませつつシクロクロスシーズンが幕を開けた。

10月8日。JCXシリーズの初戦となる茨城シクロクロス取手ラウンドの会場でジャージ姿になった小坂の姿を久しぶりに見て、上半身がひと回り大きくなっていることに気付き、驚かされた。MTBのレースを戦ってきたこと、中田コーチとのトレーニングの成果がしっかりと肉体に現れていると実感した。

だが、それ以上に驚かされたのが、そのレース運びだった。

これまでであれば自分の理想とするレース展開に持ち込もうと焦ったり、それによってミスをしたりということが多かったが、この日のレースはパックで走るライバルの前田公平の敢えて先行させて様子をうかがい、戦況や相手のウィークポイントを冷静に判断して一気に勝負を仕掛ける「大人」のレース運びで、変わった姿を見せてくれたのだ。

もちろん、1レースだけでは、小坂が変わったと自分は信じ切ることはできなかった。

だが、その後の東北シクロクロスさがえラウンド、スターライトクロス幕張、関西シクロクロスマキノラウンドでも、自分が小坂の走りに抱く印象が変わることはなかった。

そして、その印象が確信へと変わったのが、野辺山Day-1だった。

リザルトは5位と、特筆すべき結果ではない。しかし、その走りは心・技・体ががっちりと噛み合った、自分が6年間取材をしてきた中でも、自信を持って「ベスト」と言える走りだった。

“今日の走りができれば、間違いなく全日本選手権でも勝てる”。自分はそう思えるようになっていた。

メカニック陣の完璧な仕事も、さらに磨きがかかっていた。関西シクロクロスマキノラウンドの時は、あまりバイク交換の必要を感じていなかった小坂に対して、田村メカが「何かあってからじゃ遅いんだから、必要ないと思っても定期的にバイク交換をしてください」とひと言。

どのレースでも、試走の時に小坂が走って得た感覚に対して、メカニックとしての視点からタイヤ選択の進言するメカニック陣。小坂の感覚が絶対だった過去のチームとは違う、選手とスタッフががっちり噛み合った最高のチーム。見ていて素直にそう感じる頼もしい姿があった。

迎えた、全日本選手権。

自分はウォーミングアップをする小坂を見ながら、昨年のプレッシャーで押しつぶされていた小坂でないことを確認した。

“きっと、大丈夫だ”

そう思った自分はスタートに向けて準備を終え、召集場所に向かおうとする小坂に、変に気負わせないように、でも自信をもってもらえるように、ひと言だけ声をかけた。

「間違いなく、お前が一番強い」

レースは一進一退の展開だった。正直、誰が勝ってもおかしくない内容だったと思う。

でも、これまで共に戦ったどの全日本選手権よりも、スタッフ陣は安心して小坂のことを見ていられた。

小坂が独走で残り1周に入って最後のピットを過ぎた後、これまでであれば1人がフィニッシュ後の小坂のケアを担当し、残りは撤収作業を開始するメカニック陣も、初めて全員がフィニッシュ地点に集結した。

フィニッシュへと続くホームストレートに小坂が姿を現わす。表彰式が終わるまで泣くまいと心に誓っていたのに、自分はすでに涙を流しながらシャッターを切っていた。

小坂が、いつもとは違って少し不恰好なガッツポーズでフィニッシュする。

すべてを出し切ってフィニッシュした小坂に駆け寄る大喜びのメカニック陣、号泣しながらその光景を撮影する自分。

お世辞にもカッコいい姿ではなかったと思うけれど、それでいいじゃないか。

5年苦渋を味わったフィニッシュが、6年目にして初めて歓喜を味わうフィニッシュになった瞬間だったんだから。

 

<おわり>

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2017/12/22

宇都宮ブリッツェンシクロクロスチーム 6年の歩み 【第5回】

2012年、宇都宮ブリッツェンにシクロクロス専任の選手が誕生した。

その選手の名前は、小坂光。

それから6年後、小坂は全日本選手権で優勝し、ナショナルチャンピオンジャージに袖を通す。そんな小坂とチームの歩みを、このタイミングで少しばかり振り返ってみたい。そうすることで、小坂とチームが目指す次の目標が、見つかる気がするからだ。





第5回:2016年 ー 変化の兆し ー

チームとしての形はなかったものの、2012年から始まった小坂と彼を支えるスタッフ陣の挑戦。しかし、4年連続でその挑戦は呆気なく跳ね除けられた。

こうなってくると、自分自身の中にもある種の迷いが生まれてくる。

“あの時、自分が働きながら日本一になると決めたならそれを達成しなきゃ、とか言わなければ、ヒカルはもっと早い段階で日本一になっていたのではないだろうか?自分のひと言が、彼の選手としてのキャリアを狂わせてしまったのではないだろうか?”

だが同時に、長年ロードレースとシクロクロスチームに帯同して取材を重ねる中で得たある種の皮膚感覚のようなものが、その迷いを否定してもいた。

“ヒカルはプロ向きのメンタリティではない。プロになっていたら、彼はもっと早く潰れていたかもしれない”

チームにも、微妙な停滞感が流れていた。

チーム内の人間が言うのも気が引けるが、この時点で既に、メカニック陣は国内屈指のサポート体制を築いていたと思う。そして、それに満足することなく海外トップ選手のメカニックの仕事ぶりや使っている道具を映像で確認するなど、さらにサポート体制を向上しようと研究を重ねていた。

それでもなかなか結果がついてこないことに、「フルタイムワーカーが国内トップレベルの争いを演じていることを、素直にカッコいいと思ってサポートするぐらいでいいんじゃないの」という、自虐的な目標の下方修正案も冗談で出るようになっていた。

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[野辺山Day-2での一コマ。メカニック陣のサポート体制は間違いなく国内屈指だ]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

だが、周囲の環境は、そんな下方修正案を受け入れてくれないほどに盛り上がっていた。

この年の全日本選手権の開催地は、チームの地元である栃木県宇都宮市。宇都宮市制120周年を記念する一大イベントであることに加え、関東で初開催となる全日本選手権ということもあり、関係者や地元住民、ファン・サポーターから「地元開催の全日本選手権で日本一を!」という多大な期待が小坂にかけられることになった。

そんな中、オフシーズンの貴重なトレーニングも兼ねてロードレースシーズンに入った小坂だったが、彼もまた言いようのない不安と停滞感の中にいた。

ある日、小坂と自分は食事をする機会があった。場所は、2012年に互いに大きな決断をするに至ったあの店だった。

小坂は、その時抱えている不安を口にした。

「オフシーズンにロードを乗り込んでシクロクロスシーズンに入るという流れをこれまで数年続けてきて、結局、結果に結びついていない。それが一番良い方法だと思っていたけど、このままでやっていても何も変わらない気がする」

その時、既に結構アルコールを摂取していた自分は、実はこの時の会話をはっきりと覚えていない。ただ、何となくこんなことを言ったというのは微かに覚えている。

「オレはヒカルが“これで良い”と思ってやってるんだと思っていたから、何か言うつもりもなかったよ。でも、何かを変えなければ前に進まないとヒカル自身が思っているなら、それはまさに変え時なんじゃない?幸いにも、ヒカルが変えたいと思えば周りが協力してくれる体制はある訳だし。誰かに変えてもらうんじゃなくてヒカルが自ら動けば、状況は変わっていくと思うよ」

そんな話をしてから数カ月経ち、国内シーズンが始まる前に出場した中国でのUCIレース連戦に挑んだ小坂は、同じレースに出場していた前田公平と比較して全然走れていない自分自身に愕然とする。

何かを変えなければ、状況は決して好転しない。そう思った小坂は、ロードレースやMTBのトップ選手も師事するピークス・コーチング・グループ・ジャパンの中田尚志氏に、自身のコーチングを依頼する。

小坂の依頼を、中田氏は快諾。心強い味方が加わり、宇都宮ブリッツェンシクロクロスチームはシーズンを戦うことになった。

シーズンインした小坂は、茨城シクロクロス取手、シクロクロスミーティング富士山、東北シクロクロスさがえ、スターライトクロス幕張と勝利を重ねていく。関西シクロクロスマキノはミスで2位に終わったが、野辺山Day-1では自身初となる優勝を飾り、中田氏に師事したことで確実にフィジカルが強くなりつつあることを証明する走りを見せて、地元開催の全日本選手権に臨むことになった。

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[野辺山Day-1で初優勝を飾り、表彰台の真ん中に立った]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

迎えた全日本選手権当日。小坂の表情が冴えない。

聞くと、昨夜はほとんど寝られなかったという。地元開催の全日本選手権、小坂にはその開催が決まった瞬間から大きなプレッシャーがのしかかっていた。

「期待してるよ!」「地元開催の全日本選手権で初優勝だね!」

そんな、周りの人がかけてくれる優しい言葉や期待の一つひとつが、小坂の平常心を奪っていたのだろう。

レースは、霜柱が溶けてスリッピーになったドッグラン奥のキャンバー区間の処理でできた差を最後まで埋めることができず、沢田時が初優勝。

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[沢田に追いつくことだけを考え、玉砕覚悟でペースを上げようとする小坂]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

玉砕覚悟でタイム差を縮めるためにペースアップを図った小坂は文字通り玉砕し終盤に失速。またしても3位でレースを終えた。

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[地元開催の全日本選手権で初優勝というプレッシャーが小坂を苦しめた]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

「全力を尽くしたので、後悔はない」

レース後にインタビューに応える小坂が口にした言葉。リップサービスも当然あったとは思うが、自分はその言葉を釈然としない気持ちで聞いていたことを思い出す。

中田氏に師事したことで、フィジカルは確実に向上している。しかし、このままでは、彼はきっと勝てない。

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[ゴール直後に悔しさを滲ませる小坂。その後の雰囲気に違和感を覚えたことを思い出す]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

「プロ向きではないメンタリティ」

プロ選手ではないフルタイムワーカーの小坂が、プロと変わらぬメンタリティを持つにはどうすればいいのか。そんなことを、自分は考えていた。

 

<つづく>

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2017/12/20

宇都宮ブリッツェンシクロクロスチーム 6年の歩み 【第4回】

2012年、宇都宮ブリッツェンにシクロクロス専任の選手が誕生した。

その選手の名前は、小坂光。

それから6年後、小坂は全日本選手権で優勝し、ナショナルチャンピオンジャージに袖を通す。そんな小坂とチームの歩みを、このタイミングで少しばかり振り返ってみたい。そうすることで、小坂とチームが目指す次の目標が、見つかる気がするからだ。




第4回:2015年 ー 詰めの甘い男たち ー

負けるべくして負けた2014年の全日本選手権から数日経ち、小坂のもとに更なる悲報が届く。2015年のシクロクロス世界選手権に出場する日本代表落選の報せだった。

それまでの成績を考えれば当然の結果と言えるかもしれないが、国内レースをメインに活動する小坂にとっては世界トップレベル自身の力を試すチャンスを失うことを意味する。

そんな悲報にめげることなくシーズンを戦い続ける小坂は、年が明けた2015年1月11日、関西シクロクロス希望ヶ丘に出場する。

実はこの日は、長らく小坂をサポートしてきた廣瀬メカが自身のショップをオープンさせる記念すべき日。小坂も、夢を実現するためにこの日は不在となった廣瀬メカに、勝利という最高のプレゼントをするため必勝を期してレースに臨んだ。

レースは中盤にU23チャンピオンの横山に先行される展開となるが、小坂は最終周回で横山をキャッチ。そのままゴールスプリントとなり、先行した小坂は勝利を確信して廣瀬メカに捧げるガッツポーズを決めようとした。

しかしゴール直前、諦めずにもがき続けた横山に差し切られ、まさかの2位。小坂の詰めの甘さがそのまま結果に反映するレースとなった。この詰めの甘さは、来たる2015-2016シーズンでも露見してしまうことになるとは、この時はまだ誰も気付いていなかった。

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[ゴール直前で差され2位。詰めの甘さが響いた結果だった]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

4月になり、仕事の面で小坂に変化が訪れる。それまで所属していた部署から異動となったのだ。

比較的残業が少ない部署に異動となったことで仕事後のトレーニング時間を昨年以上に取れるようになった小坂は、少しずつ復調。那須ブラーゼンに所属して出場していたロードレースのJプロツアーでもシーズン序盤は苦しむレースが多かったが、10月3日のいわきクリテリウムでは8位とトップ10に入るリザルトを残すなど後半戦に入ると本来の走りを取り戻す中でシクロクロスシーズンへと入ることになった。

シクロクロスシーズンに入った小坂は、昨年の不甲斐なさを払拭するかのような走りで勝利を重ねていく。

この年からシリーズ戦となった宇都宮シクロクロスシリーズのエキシビジョン、第1戦で勝利。さらに本格的にスタートしたジャパンシクロクロス(JCX)シリーズでも茨城シクロクロス取手、関西シクロクロスビワコマイアミラウンド、東北シクロクロス猪苗代など出場レースすべてで勝利を収め、無傷の6連勝。小坂自身、そしてスタッフ陣も確かな手応えを得て全日本選手権前のUCIレース連戦を迎えることになった。

UCIレース連戦の初戦、関西シクロクロスマキノラウンドでは2位となり連勝はストップしたものの、終盤までベルギーの大ベテラン選手ベン・ベルデンとマッチレースを展開。さらなる手応えを感じ、野辺山2連戦へと臨んだ。

しかし、小坂は野辺山Day-1の終盤で失速。このレースが国内初戦となった竹之内悠(ベランクラシック・エコイ)に引き離されるばかりか、MTB全日本チャンピオンでプレオリンピックのクロスカントリーで11に入る活躍を見せた山本幸平(トレック)にも先行されて4位でフィニッシュという結果になった。

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[序盤は好走を見せたものの、終盤に失速。竹之内の勝負強さが際立った]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

その晩、廣瀬メカと自分は宿泊先近くのラーメン屋にいた。その前に夕飯は食べていたので、決してお腹が空いていたという訳ではなかったが、怪我をしながらもきっちり勝利を収める竹之内の姿が焼き付いていて、どうしても真っ直ぐ宿に帰る気にならなかったのだ。

ラーメン屋でお互いが心の内に抱えていたことをぶつけ合ってみると、ほぼほぼ同じことを考えていた。

「勝負強さという点で、竹之内と小坂の間にはまだ大きな開きがある。このままでは、全日本選手権も厳しい結果になってしまうかもしれない」。そんな危機感をお互いが抱えていた。

それでも、短期間でフィジカルが劇的に進化することはあり得ないから、せめてモチベーションだけは高く維持できるよう、こちらから発破をかけていきましょう。そんなことを話し合ったのだが、自分たちのこの前のめり感も自滅の始まりだったのだと、今となっては分かる。

竹之内が大事をとって欠場を選んだ野辺山Day-2。小坂は前日の走りからきっちり持ち直して海外招待選手のザック・マクドナルドに次ぐ2位でフィニッシュ。野辺山で初めて表彰台に上がったことで勢いを得て、翌週の全日本選手権に挑むことになった。

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[強さというよりは脆さ。そんな印象を抱かせる小坂の姿だった]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

迎えた全日本選手権。

展開次第では小坂が竹之内を上回ることもある。そんな風に考えていたスタッフ陣は、朝からモチベーションだけは最高潮でいようとピリピリとした雰囲気を放っていたと思う。それはレース後、取材に訪れていたNHK宇都宮支局のレポーターが「怖くて話しかけられなかった」と言うぐらいだった。

レースはスタートから、小坂が飛び出して先頭を独走する展開が続く。しかし、中盤を過ぎると後方から竹之内と山本がじわじわ迫り、6周回目に先頭は3名のパックとなる。

3名のパックとなった後も小坂は冷静さを保ってレースを進めていたが、7周回目の泥区間から舗装路区間に出る場所で前輪を滑らせ、まさかの転倒。そのショックで前輪がズレてブレーキと干渉する状態となってしまい、竹之内と山本に引き離されてしまう。

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[危険と思われた箇所で転倒し遅れをとった小坂がバイク交換のためにピットを目指す]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

バイクを交換した小坂は懸命に追走を試みるが、転倒からバイク交換までに失ったタイム差を取り戻すことはできず、またも3位でレースを終えることとなった。

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[大一番で詰めの甘さを見せてしまった小坂]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

レース後、廣瀬メカは小坂の父・正則氏から「ヒカルが転んだ場所は、レースが進むに連れて泥が舗装路に乗っていっていて、危ないな、注意してクリアしないとなと思っていた場所だったんだ」という話を聞いたという。

レース終盤の極限状態の中、コースを冷静に判断し、落ち着いてレースを進められなかった小坂。この年の最初に露見していた詰めの甘さが、まさに大一番で出てしまった結果だった。

そして、それはスタッフ陣も同様。前のめりになり過ぎ、間違いなく冷静さを欠いていた。

選手、スタッフともに、勝利を手にするにはまだまだ未熟だったと言うしかない敗戦となった。



<つづく>

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2017/12/19

宇都宮ブリッツェンシクロクロスチーム 6年の歩み 【第3回】

2012年、宇都宮ブリッツェンにシクロクロス専任の選手が誕生した。

その選手の名前は、小坂光。

それから6年後、小坂は全日本選手権で優勝し、ナショナルチャンピオンジャージに袖を通す。そんな小坂とチームの歩みを、このタイミングで少しばかり振り返ってみたい。そうすることで、小坂とチームが目指す次の目標が、見つかる気がするからだ。





第3回:2014年 ー 停滞 ー

たったひとつのパンクで勝負の舞台から引きずり降ろされた2013年の全日本選手権の雪辱を晴らすことが目標となった2014年。

しかし、振り返ってみると、この2014年が宇都宮ブリッツェンシクロクロスチームのどん底の時期だったと感じる。

そのひとつの要因が、小坂自身のコンディションとパフォーマンスだ。

社会人生活4年目となった小坂は、任される仕事の重要度も増し、それに伴って業務量も確実に増加。定時に帰れることも日増しに少なくなり、満足に練習時間を取れない日が多くなっていった。

もうひとつの要因は、シクロクロスチーム自体の立ち位置。

この要因は未だに解消できているとは言い難いが、シクロクロスチームとして独自のスポンサー獲得などができておらず、活動に要する費用面は、ロードレースチームや運営会社が別事業で稼いだ売上が充てられているというのが現実だった。

また、ロードレースチームの監督・メカニック各1名ずつというスタッフ体制に対して、シクロクロスチームは監督はいないもののメカニックを3名必要とするレースもあり、そういったサポート体制が疑問視されることもあった。

「はっきり言って、赤字事業だよね」

小坂自身はもちろんのこと、自分も何度となくこんな言葉を聞く状況が続いていた。

そんな小坂とチームの状況を尻目に、チームの地元である宇都宮市ではシクロクロスに対する土壌を醸成しようと、新たな試みが始まろうとしていた。

それが、「ジャパンカップシクロクロス」だ。

宇都宮市の中心市街地、宇都宮市役所の東隣にある宇都宮城址公園を舞台に開催されたこのレースは、土曜日のエキシビジョンレース、日曜日の本戦ともに大盛況。初めてシクロクロスを観戦するという観客も多く、シクロクロスの面白さ、競技としての魅力を伝えるには十分だった。

そんな地元の盛り上がりを受けて勢いに乗りたい小坂とシクロクロスチームは、いよいよ本格シーズンインを果たす。

全日本チャンピオンを争うライバル選手が揃わない各地域のシリーズ戦で小坂は着実に勝利を重ねていきたいところだったが、そのパフォーマンスはお世辞にも絶好調と言えるものではなく、それまでのピーク時にはまったく及ばない走りと言わざるを得ないもの。

東北シクロクロス猪苗代では、MTBで数々の実績を残し、そのキャリアの最後にシクロクロスに本格参戦していた山本和弘(弱虫ペダルシクロクロスチーム)の後塵を拝してもいた。

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[関西シクロクロスマキノラウンドでは山本に競り勝ち2位に入る]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

全日本選手権前の重要レースと言えるUCIレース連戦の初戦、関西シクロクロスマキノラウンドではその山本に競り勝ち、海外招待選手のイタリアU23チャンピオン、ジョエーレ・ベルトリーニに次ぐ2位でフィニッシュしたものの、続く野辺山2連戦では初日が5位、2日目が6位。

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[野辺山Day-1 メカトラブルでバイクを担いでピットに向かう小坂]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

同い年のライバル竹之内悠(ヴェランクラシック・ドルチーニ)、そして山本にフィジカル、コンディションともに劣っていることを露呈する結果となってしまった。

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[CXチームスタート前の儀式も、この頃から定番化していった]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

そんな中で迎えることとなった全日本選手権。

小坂はスタート直後にいきなり、チェーン落ちのトラブルに見舞われて10番手前後に順位を下げてしまう。何とか持ち直して追走に入ったものの、今度は会場となったスポーツランドSUGOモトクロスコースのまとわりつくような粘土質の土がタイヤにまとわり付いてタイヤが回らない状態に何度も見舞われることになった。

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[タイヤを交換したバイクで猛追を見せた小坂だったが3位に終わった]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

タイヤが回らなくなってしまったバイクを担いでピットに戻った小坂は、異なるタイヤを付けたバイクに交換して再びコースイン。その後は猛烈な追い上げを見せて3位にまでポジションを上げてフィニッシュしたが、4連覇を達成した竹之内は小坂の2分3秒先に歓喜の瞬間を迎えていた。

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[レース後、頭を抱えて悔しさを露わにする小坂。なかなか埋まらない竹之内との差に全員が頭を悩ませる]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

このレースで突きつけられたのは、優勝した竹之内との経験の差。そして、リスクマネージメントの差だった。当時を振り返って、その経験の差を廣瀬メカが指摘する。

「あの日はコースコンディションを考えてヒカルはマッドタイヤを選択していたし、他の選手もほとんどがそうだった。でも、竹之内だけはマッドよりもパターンの細かいタイヤを選択していた。経験からまとわり付く粘土質の土ということを見抜いて、必要以上に土が付かないタイヤを選択していたんだと思う」

リスクマネージメントという点に関しては、自分がレース中に目の当たりにした光景が忘れられない。

竹之内は、ハンドル操作が重要ではない区間で走りながら前輪に手を当て、タイヤに付いていた土を自ら落とすテクニックを披露して見せたのだ。極限の緊張感の中で争われる全日本選手権という舞台でも落ち着いて、冷静にリスクヘッジする竹之内の姿に、小坂との決定的な差を見た瞬間だった。

「あの頃は、ヒカルの感覚が絶対で、バイクセッティングやタイヤ選択の全てがヒカルの指示で決まっていた。もちろん、選手の感覚が一番大切だけど、違う目線でアドバイスをできるだけの経験がメカニック陣になかった。負けるべくして負けたレースだったんだと思う」

廣瀬メカが語ったこの言葉が全て。

満足にトレーニングを重ねることさえできていなかった小坂。そして、選手に対して違った目線から明確なアドバイスをできなかったチームの未熟さ。どうすれば全日本チャンピオンの竹之内に近付き、追い抜くことができるのか。

チームの全員がそのことを自問自答するまま、悪戯に時間だけが過ぎていった。




<つづく>

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2017/12/15

宇都宮ブリッツェンシクロクロスチーム 6年の歩み 【第2回】

2012年、宇都宮ブリッツェンにシクロクロス専任の選手が誕生した。

その選手の名前は、小坂光。

それから6年後、小坂は全日本選手権で優勝し、ナショナルチャンピオンジャージに袖を通す。そんな小坂とチームの歩みを、このタイミングで少しばかり振り返ってみたい。そうすることで、小坂とチームが目指す次の目標が、見つかる気がするからだ。




第2回:2013年 -ひとつのパンクが、想いをひとつに-

迎えた2013年。

小坂は、チーム名を「宇都宮ブリッツェンシクロクロスチーム」に決めた。チームで戦い、全日本のタイトルを獲るという気持ちの表れ。ようやく、チームの歯車が回り始めた。

だが、だからと言ってすぐにすべてが順風満帆とはいかない。言ってしまえば、小坂と池本メカを除く廣瀬メカ、田村メカ、自分の3人はシクロクロスに関して素人も同然。というか、ほぼ素人。

レースを重ねていく中で、出来るだけ早く小坂が求めるレベルまで進化していく以外に道はなかった。

一方の小坂は社会人生活2年目を迎え、ほんの少しだけ仕事と選手生活のバランスを見出し始めていた。信州シクロクロスなどのシリーズ戦で3連勝を飾り、勢いに乗った状態でUCIレースへと臨むことになった。

野辺山シクロクロスDay-1。小坂は序盤、全日本チャンピオン竹之内悠と接戦を演じたものの、中盤にシケインを飛んだ瞬間に脚を痙攣。しばらくレースに復帰できずに後退してしまい7位。続くDay-2も4位と表彰台を逃す結果となった。

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[まだまだ仕事と選手の両立ができていないことを露呈する痙攣となった]
photo(C):Nobumnichi.Komori/HATTRICK COMPANY

いくら小坂が仕事と選手生活のバランスを見出し始めたとはいえ、それは決してベストなバランスではない。着実に成長していると言っても、その成長曲線が緩やかなものだということは、結果が証明してしまっていた。

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[関西シクロクロス野洲ラウンドで3位表彰台を獲得し、全日本選手権へ弾みをつけた]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

そんな中でも、続く関西シクロクロス野洲ラウンドで3位表彰台を獲得した小坂は、信州シクロクロス上山田での勝利を挟んで、いよいよ全日本選手権に臨むことになった。

レースはスタートこそ数名が先頭パックを形成する展開だったが、レースが進むにつれて小坂と竹之内の一騎打ちの様相を呈してきた。この日の小坂は竹之内の走りを冷静に見る余裕もあり、終盤までパックのままレースを進めることができれば、念願の勝利を挙げることもできるのではないかという走りを見せていた。

しかし、4周回目に考えもしなかった事態が起きる。

ピットを通過したばかりの小坂が、メカニック陣に向けて手を挙げる。パンクだ。ピットを過ぎた直後のパンクだったため、次にバイク交換ができるピットに辿り着くには、およそ半周をパンクした状態のバイクで走らざるを得ないことになる。

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[最悪なタイミングのパンクで竹之内に離されていく小坂。この時点で勝負は決した]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

何とかピットに辿り着きバイク交換をした小坂は、この時点で3番手に後退。その後猛追を見せて2位に順位を上げはしたが、3連覇を達成した竹之内に追いつくには、余りに痛いタイムロスだった。

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[バイク交換後に猛追を見せて2位となったが、目標の優勝には届かなかった]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

勝利に肉迫する走りを見せていた小坂を襲った、たった1回のパンク。しかし、そのパンクが勝利を遠ざけるには十分だという怖さを思い知るレースとなった。

今現在でも、この時のレースの話になると、廣瀬メカは後悔を口にする。

「ピットを過ぎてすぐにヒカルが手を挙げた瞬間が、今でも本当に忘れられないんだよなぁ。その瞬間はどうすることもできなくても、その前に何かできたことがあったんじゃないか、って今でも考えることがある」

それは、残る2名のメカニック、池本メカと田村メカも同じ気持ちだったに違いない。だからこそ、この全日本選手権後、メカニック陣がある想いを強くしたことを感じるようになった。

“ヒカルを日本一にするために、まずは自分たちメカニック陣が日本一のサポート体制を作らなければいけない”

自分も含めて小坂を支えるサポート陣が、まず日本一のチームになること。4名のスタッフは、改めて想いをひとつにした。



<つづく>

 

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2017/12/14

宇都宮ブリッツェンシクロクロスチーム 6年の歩み 【第1回】

2012年、宇都宮ブリッツェンにシクロクロス専任の選手が誕生した。

その選手の名前は、小坂光。

それから6年後、小坂は全日本選手権で優勝し、ナショナルチャンピオンジャージに袖を通す。そんな小坂とチームの歩みを、このタイミングで少しばかり振り返ってみたい。そうすることで、小坂とチームが目指す次の目標が、見つかる気がするからだ。


第1回:2011年、2012年 -チーム結成前夜

<2011年>

宇都宮ブリッツェンのチーム創設から2011年まで、ロードレースチームの選手として活躍していた小坂。その期間は同時に、大学生から社会人へと自身の立ち位置を変えていく期間でもあった。

ロードレースチームでの最終シーズンとなった2011年、小坂は宇都宮市役所で社会人1年目を歩み始めた。プロ選手としての契約も打診されはしたが、本人は偉大なる父・正則氏と同じくフルタイムワーカーと選手の二足の草鞋を履くことを選択したのだ。

何もかもが初めての経験となる社会人1年目。当然ながら仕事に時間もエネルギーも取られることになり、徐々にパフォーマンスは落ちていった。

同時に、現在もロードレースチームのエースとして活躍する増田成幸や、のちにロード全日本チャンピオンとなる初山翔らがこの年に加入。チームは急速に進化を遂げ、二足の草鞋を履く小坂の立ち位置がチームの中でも微妙なものになっていった。

そんな中で出たのが、2012年は契約を延長しないという結論だった。

しかし、当時の監督・栗村修氏と運営会社は、小坂が情熱を注ぐシクロクロスに対して理解を示し、ロードレースは下部育成チームのブラウブリッツェンで、シクロクロスは宇都宮ブリッツェンの選手として、2012年は活動できるよう道筋を作ってくれた。



<2012年>

ちなみにこの年、宇都宮ブリッツェンシクロクロスチームは、まだ誕生していない。

この時の小坂のレースサポートは、父・正則氏が所属するスワコレーシングの皆様におんぶに抱っこの状態。時折、池本メカが小坂のサポートに入る程度だった。

「もし良かったら、シクロクロスにも取材に来てくださいよ~」

この当時、ロードレースの会場で会うたび、共に食事をするたび、自分は小坂から言われていた。“確かに、シクロクロスも面白そうだな”。そう思った自分は、当時まだ大学生だった田村メカと一緒に、野辺山で開催されるレースに向かった。

2012_nobeyama_2
[シクロクロス初取材となった野辺山Day-2]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

そして、その年の琵琶湖マイアミのレースで、廣瀬メカも初めて小坂をサポートすることになる。

「シクロクロスのことは全然わからなくて、ピットでのバイク交換の仕方とか周りのチームの人に教えてもらいながら、すべてを手探りでサポートしてたなぁ」

当時を懐かしむように、廣瀬メカは振り返った。

そして迎えた、全日本選手権。

重ねて言うが、この時はまだ宇都宮ブリッツェンシクロクロスチームは誕生していない。

2012_alljapan_01
[のちにチームスタッフとなる3名のメカと自分が初めて会場に集結した]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

しかし、期せずして、小坂、池本メカ、廣瀬メカ、田村メカ、そして自分の全員が会場である「ふもとっぱら」に揃った。小坂は、優勝した竹之内悠にわずか3秒及ばず2位。惜しくも全日本チャンピオンには手が届かなかった。

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[優勝した竹之内選手にわずか3秒及ばずの2位]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

数年経った今だから言えることでもあるが、この日、宇都宮ブリッツェンシクロクロスチームの歴史は始まっていたのかもしれない。





その全日本選手権から数日後。小坂と自分は互いが行きつけにしている飲食店にいた。そこで、小坂は自分にこんな相談をしてきた。

「仕事をしながらの選手活動は正直しんどいし、自分がどんどん弱くなっているような気がする。このままでは竹之内との差は開いていくばかりなのではないか。自分も仕事を辞め、ベルギーなどの本場に行くべきではないか」

そんな小坂の相談に対し、自分はこう答えた。

「親父さんと同じように、働きながら日本一になるという決断をしたのは他でもないヒカル自身。それを1年で簡単に諦めるというのは、ただ、今の辛い状況から逃げようとしているだけなんじゃないか。1度逃げた人間は、辛い状況に遭遇したらまた逃げる。まずは自分が1度はやると決めた環境で、掲げた目標を達成してから、海外でもどこでも行けばいいんじゃないのか」

そんな自分の言葉がどれほどの影響を与えたかは分からないが、小坂はフルタイムワーカーと選手の二足の草鞋を履き続けることを決めた。

その決断を受け、自分も覚悟を決めた。“ヒカルが全日本のタイトルを獲るまで、メディアスタッフとしてサポートし続ける”ということを。

そして自分は、メディアスタッフとしてロードレースのオフ期間は「宇都宮ブリッツェン」の名前が県内メディアに露出する機会が一気に減る。それはチームにとっても運営会社にとってもマイナスになる。この期間にシクロクロスの情報を県内メディアにしっかり配信すれば、1年を通して宇都宮ブリッツェンの名前を露出できる。だから、シクロクロスに自分が帯同する予算を捻出して欲しいと提案した。

同時に小坂は、全日本を獲るためにはメカニックにサポートしてもらい、ピットワークを含めてチームで戦わなければ目標は達成できない。目標達成のためにも、レースにメカニック陣が帯同する予算を取ってもらいということを運営会社に直訴。

 

このふたつを運営会社が受け入れてくれたことで、現在に繋がるチームの枠組みができあがり始めた。


<つづく>

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