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2017/12/14

宇都宮ブリッツェンシクロクロスチーム 6年の歩み 【第1回】

2012年、宇都宮ブリッツェンにシクロクロス専任の選手が誕生した。

その選手の名前は、小坂光。

それから6年後、小坂は全日本選手権で優勝し、ナショナルチャンピオンジャージに袖を通す。そんな小坂とチームの歩みを、このタイミングで少しばかり振り返ってみたい。そうすることで、小坂とチームが目指す次の目標が、見つかる気がするからだ。


第1回:2011年、2012年 -チーム結成前夜

<2011年>

宇都宮ブリッツェンのチーム創設から2011年まで、ロードレースチームの選手として活躍していた小坂。その期間は同時に、大学生から社会人へと自身の立ち位置を変えていく期間でもあった。

ロードレースチームでの最終シーズンとなった2011年、小坂は宇都宮市役所で社会人1年目を歩み始めた。プロ選手としての契約も打診されはしたが、本人は偉大なる父・正則氏と同じくフルタイムワーカーと選手の二足の草鞋を履くことを選択したのだ。

何もかもが初めての経験となる社会人1年目。当然ながら仕事に時間もエネルギーも取られることになり、徐々にパフォーマンスは落ちていった。

同時に、現在もロードレースチームのエースとして活躍する増田成幸や、のちにロード全日本チャンピオンとなる初山翔らがこの年に加入。チームは急速に進化を遂げ、二足の草鞋を履く小坂の立ち位置がチームの中でも微妙なものになっていった。

そんな中で出たのが、2012年は契約を延長しないという結論だった。

しかし、当時の監督・栗村修氏と運営会社は、小坂が情熱を注ぐシクロクロスに対して理解を示し、ロードレースは下部育成チームのブラウブリッツェンで、シクロクロスは宇都宮ブリッツェンの選手として、2012年は活動できるよう道筋を作ってくれた。



<2012年>

ちなみにこの年、宇都宮ブリッツェンシクロクロスチームは、まだ誕生していない。

この時の小坂のレースサポートは、父・正則氏が所属するスワコレーシングの皆様におんぶに抱っこの状態。時折、池本メカが小坂のサポートに入る程度だった。

「もし良かったら、シクロクロスにも取材に来てくださいよ~」

この当時、ロードレースの会場で会うたび、共に食事をするたび、自分は小坂から言われていた。“確かに、シクロクロスも面白そうだな”。そう思った自分は、当時まだ大学生だった田村メカと一緒に、野辺山で開催されるレースに向かった。

2012_nobeyama_2
[シクロクロス初取材となった野辺山Day-2]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

そして、その年の琵琶湖マイアミのレースで、廣瀬メカも初めて小坂をサポートすることになる。

「シクロクロスのことは全然わからなくて、ピットでのバイク交換の仕方とか周りのチームの人に教えてもらいながら、すべてを手探りでサポートしてたなぁ」

当時を懐かしむように、廣瀬メカは振り返った。

そして迎えた、全日本選手権。

重ねて言うが、この時はまだ宇都宮ブリッツェンシクロクロスチームは誕生していない。

2012_alljapan_01
[のちにチームスタッフとなる3名のメカと自分が初めて会場に集結した]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

しかし、期せずして、小坂、池本メカ、廣瀬メカ、田村メカ、そして自分の全員が会場である「ふもとっぱら」に揃った。小坂は、優勝した竹之内悠にわずか3秒及ばず2位。惜しくも全日本チャンピオンには手が届かなかった。

2012_alljapan_02
[優勝した竹之内選手にわずか3秒及ばずの2位]
photo(C):Nobumichi.Komori/HATTRICK COMPANY

数年経った今だから言えることでもあるが、この日、宇都宮ブリッツェンシクロクロスチームの歴史は始まっていたのかもしれない。





その全日本選手権から数日後。小坂と自分は互いが行きつけにしている飲食店にいた。そこで、小坂は自分にこんな相談をしてきた。

「仕事をしながらの選手活動は正直しんどいし、自分がどんどん弱くなっているような気がする。このままでは竹之内との差は開いていくばかりなのではないか。自分も仕事を辞め、ベルギーなどの本場に行くべきではないか」

そんな小坂の相談に対し、自分はこう答えた。

「親父さんと同じように、働きながら日本一になるという決断をしたのは他でもないヒカル自身。それを1年で簡単に諦めるというのは、ただ、今の辛い状況から逃げようとしているだけなんじゃないか。1度逃げた人間は、辛い状況に遭遇したらまた逃げる。まずは自分が1度はやると決めた環境で、掲げた目標を達成してから、海外でもどこでも行けばいいんじゃないのか」

そんな自分の言葉がどれほどの影響を与えたかは分からないが、小坂はフルタイムワーカーと選手の二足の草鞋を履き続けることを決めた。

その決断を受け、自分も覚悟を決めた。“ヒカルが全日本のタイトルを獲るまで、メディアスタッフとしてサポートし続ける”ということを。

そして自分は、メディアスタッフとしてロードレースのオフ期間は「宇都宮ブリッツェン」の名前が県内メディアに露出する機会が一気に減る。それはチームにとっても運営会社にとってもマイナスになる。この期間にシクロクロスの情報を県内メディアにしっかり配信すれば、1年を通して宇都宮ブリッツェンの名前を露出できる。だから、シクロクロスに自分が帯同する予算を捻出して欲しいと提案した。

同時に小坂は、全日本を獲るためにはメカニックにサポートしてもらい、ピットワークを含めてチームで戦わなければ目標は達成できない。目標達成のためにも、レースにメカニック陣が帯同する予算を取ってもらいということを運営会社に直訴。

 

このふたつを運営会社が受け入れてくれたことで、現在に繋がるチームの枠組みができあがり始めた。


<つづく>

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